この記事は「#3000文字チャレンジ」という企画用の記事になります。
※内容はすべてフィクションです。
私はうどんです。
正確には、私はうどんになったようです。
ある朝、目が覚めると私はうどんになっていました。
人間だった時の記憶もあります。
人間だった私には妻と娘がいました。
うどんである今の私には目がありません。
手もありません。
足もありません。
そのため自分がうどんである姿を見ることも、手で触って確かめることもできません。
私にできることは考えることだけです。
自分がうどんであることは何となくわかります。
白い体。
太い体。
コシもしっかりしていて、食べ応えのあるうどんだと感じます。
味に自信があります。
恐らく人間だった時の体格が影響しているのかもしれません。
人間だった私は、中肉中背で決して細身ではありませんでした。
そのためうどんになった私も、同じような形状なのではと感じます。
もしかしたら私がそう思っているだけで、私の形状は私の創造主の意図かもしれません。
創造主が細麺より、太麺が好きなのかもしれません。
コシが強い麺が好きなのかもしれません。
創造の過程でしっかりと踏まれ、太く切られただけかもしれません。
いずれにしても、私にはその真意を知ることはできませんが、私は自分を太く、コシのあるうどんだと思っています。
私は自分がどのようなうどんであるかが分かった時、少し安心しました。
なぜなら自分がうどんであることを認識しやすいからです。
もし私が細身のうどんだったら、私は自分をうどんだと認識することができないかもしれません。
私はうどんである自分が細くなっていくことを想像してみました。
私は白い細麺です。
私を見た人間は私がどのくらいの太さであれば、うどんだと思ってくれるのでしょうか。
どのくらい細くなれば、うどん以外の何かと思うのでしょうか。
ひやむぎ、そうめん。
うどんと似て非なるもの。
うどんになったその日から、私はひやむぎ、そうめんに対して、自分とは違うものだと感じていました。
ただ私が細くなればなるほど、私はひやむぎと思われ、そうめんと思われるかもしれません。
うどん、ひやむぎ、そうめん。
同じ材料から作られるこの3つの麺は、製法が多少違いますが、その違いを明確に分けるものは、その麺の太さです。
私たち麺類にとって、麺の太さは単なる見た目を決めるものではありません。
麺類にとって太さこそが、自分が何者であるかを決めるアイデンティティです。
あいまいな太さであれば、他の似て非なるものに間違えられる可能性が高くなります。
それは自分のアイデンティティを曖昧にすることを意味します。
だからこそ私は、自分が太いコシのあるうどんであることを誇りに思いました。
自分のアイデンティティを認識しやすいことはとても需要なことです。
それは私の存在意義に関わることです。
どのくらいの太さであれば、うどんになり、ひやむぎになり、そうめんになるのかは明確に定義されています。
諸説ありますが、そうめんは乾麺の直径が1.3mm未満。
ひやむぎは乾麺の直径が1.3mm以上1.7mm未満。
うどん乾麺の直径が1.7mm以上です。
直径こそ全て。
メートル法で表現される長さこそ真理であると言えます。
ただ同時に私に別の考えが浮かんできました。
長さが真理なら、その長さとは一体何なのかと。
そもそも1mmとはどのように決まっているのかと。
私は人間であった頃の知識を掘り起こし、考えました。
現在のメートル法では、1mは光の速さと時間を基準に定義されていると記憶しています。
光の速さと時間はこの世界でもっとも正確で、不変だからです。
ただ同時にもうひとつの事実を思い出しました。
アインシュタインの相対性理論によれば、光の速さや時間でさえ不変ではない。
つまり私たち麺類にとってのアイデンティティを定義するその長さ自体も、不変ではないことに気づいてしまったのです。
長さという不変で絶対な真理だと思っていたものが、相対的であるという事実。
この事実を知ってしまった時、私のアイデンティティは脆く、砕け散りました。
私はうどんでないかもしれない。
もしかしたら私はあの細い、すぐ茹で上がり、コシのないそうめんや、ひやむぎと同じなのかもしれない。
私はうどんになった時、心のどこかでそうめんとひやむぎを見下していました。
私を見れば、だれもが私をうどんだと思うに違いない。
それに比べ、そうめんやひやむぎはどうだ。
そうめんとひやむぎを瞬時に判断できる人間は、どれほどいるだろうか。
特にひやむぎなどというものは、ほぼそうめんだと思われてるに違いない。
私はそんなあいまいな存在ではない。
なぜなら私はうどんだから。
私は太くてコシのあるうどん。
そうめんやひやむぎとは似て非なるもの。
そう思っていました。
しかし私が直面した事実は、私がうどんであることを証明してくれる長さでさえも、不確かなものであるということでした。
私はそうめんやひやむぎと同じように思われる自分を想像し、絶望しました。
私は自分が見下していたそうめんやひやむぎと同じ存在なのかもしれない。
私を見て、私をそうめんやひやむぎと言う人間がいるかもしれない。
私はうどんではないのかもしれない。
私は一体何者なのか。
私の存在意義はどこにあるのか。
私は何のために生まれたのか。
私は完全に自分を見失いました。
絶対的な不変の真理がないこの世界で、どうやって私は自分を定義し、自分を認識していけばいいのか。
創造主はなんと残酷な世界に私を作ったのか。
そんな時、私はうどんになったばかりのことを思い出しました。
なぜ私は自分をうどんだと思ったのだろう。
目もない。
手もない。
足もない。
しかし私は自分がうどんであると思っている。
私を見て、うどんだと分かってくれる人間がいる。
私がうどんであることを、完全に証明することはできないかもしれない。
ただ私がうどんでないことを、完全に証明することもできないと。
私が自分をうどんだと思い、私をうどんだと分かってくれる人間がいる。
私にとってはそれこそが真理であり、私のアイデンティティを確立してくれるものだと気づきました。
私はうどんである自分と、私をうどんだと分かってくれる人間の間で存在している。
それ以上でもそれ以下でもない。
もともと私に存在意義などないのかもしれない。
私が生まれた理由などないのかもしれない。
大切なのは、私が自分をうどんだと思い、私がどんなうどんでありたいのか、私が何を成したいのかということ。
存在意義や目的、理由は、誰かに定義されるものではなく、誰かに与えられるものでもなく、探すものでも、みつけるものでもない。
それは自分で決めるもの。
私は太く、コシのある麺でありたい。
例えそれが誰かにとっては、そうめんやひやむぎであっても。
それと同時に私は自分がなんて心の小さな麺だったのだろうと思いました。
そうめんやひやむぎを見下していた自分が、恥ずかしくてたまらなくなりました。
私は何も分かってなかった。
そうめんやひやむぎがいるからこそ、私は存在することができる。
そして私はそうめんやひやむぎだけでなく、私の周りに纏わりつくこの白い粉や、私を平たく伸ばした麺棒など、すべてのものが自分にとってかけがえのない、愛おしい存在に思えました。
そう思えたとき、私は自分の心に光が当たったように感じました。
私の心は安らぎを得ました。
まるで生まれ変わったような気持ちでした。
これで私は一歩前に踏み出せる。
麺としての生を全うすることができる。
私は温かものに包まれ、私の中に温かなものが入ってくる。
そしてその温かさと同化していくように感じました。
同時に私は意識が薄れていくのも感じました。
これがうどんとしての幸せなのかもしれない。
消えゆく意識の中、私の心の中で響く声を感じました。
「ごちそうさまでした!」
「お母さん今日のうどんおいしかったね!」
「そうだね。今まで食べたうどんの中で、一番おいしかったかもしれないわ。」
「今度はお父さんと一緒に食べたい!」
「お父さんも気に入ってくれると嬉しいね。」
終
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